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高井鴻山と小布施の文化③|変わったのは、見る側だった

小林聖花《戦艦武蔵死闘の圖》。激しい波と爆発の中で戦艦武蔵の最期を描いた屏風作品 寺・神社・文化

2026年9月2日、午前9時30分。

全4回で行われている専門講座
「髙井鴻山と小布施の文化」。

今回は、その第3回。

会場は、
おぶせミュージアム・中島千波館だった。

そのすぐ前には、
物語ボックス第九話「竜灯の雨ごい」もある。

第1回から参加し、

第2回では上田へ出かけた。

一緒に食事をする時間もあった。

3回目ともなると、

最初の頃とは
少しだけ空気も違う。

車を停めて顔を合わせれば、

「お久しぶりです。
今日はお世話になります」

そんな挨拶が、

自然に出るようになっていた。

同じ講座に続けて参加するというのは、

知識だけではなく、

人との距離も
少しずつ変えていくものなのかもしれない。

この日は、

小布施町役場の職員の方の挨拶から始まった。

続いて、

この日の館内案内をしてくださる、

おぶせミュージアム・中島千波館
館長の鶴田典昭さんから挨拶があった。

ここからは、

鶴田館長の案内で、

参加者みんなで館内を歩きながら、

作品を見て、

その背景にある話を聞いていく。

開催されていたのは、

長野県立美術館との交流名品展

「信州のダイナミズム
―疎開画家たちの作品を中心に―」。

会期は、

2026年8月8日から10月5日まで。

交流名品展「信州のダイナミズム―疎開画家たちの作品を中心に―」案内チラシの表面
交流名品展「信州のダイナミズム」の案内チラシ(表面)。
交流名品展「信州のダイナミズム―疎開画家たちの作品を中心に―」案内チラシの裏面
交流名品展「信州のダイナミズム」の案内チラシ(裏面)。

疎開した画家。

信州にゆかりのある画家。

戦争を経験した画家。

その作品を前に、

第3回の講座は進んでいった。

なお、この記事を書くにあたり、

9月11日に再びおぶせミュージアムを訪れ、

展示資料や鶴田館長のお話から、

一部内容をあらためて確認している。


「博物館浴」って、ご存じですか

ところが。

最初に鶴田館長から出てきたのは、

絵の技法でも、

画家の名前でもなかった。

「博物館浴」。

初めて聞く言葉だった。

九州産業大学が作成した「博物館浴 MUSEUM BATHING」パンフレットの表紙
講座で紹介された「博物館浴」のパンフレット。

博物館や美術館で作品を見たり、

その空間で過ごしたりすることと、

心身の健康との関係を研究している。

森林浴なら知っている。

森の中を歩く。

木々の間で深呼吸をする。

なんとなく、

気持ちが落ち着く。

では、それと同じように、

博物館や美術館で作品を見たり、

その空間でゆっくり過ごしたりすることでも、

人の心や体に
何か良い変化が起こるのではないか。

それを研究しているのが、

「博物館浴」だという。

この日いただいた資料を見ると、

作品鑑賞の前後で、

血圧や脈拍、
心理状態などを調べる研究が行われている。

全国111の博物館関連施設で、

1,850人を超える人のデータが
集められているという。

10分、20分、30分といった
比較的短い時間の鑑賞についても調べられ、

海外では、

医療と博物館を結びつける

「博物館処方箋」

と呼ばれるような取り組みも行われている。

なんとなく、

「美術館に行くと落ち着く」。

それを、

なんとなくのままで終わらせず、

実際に確かめようとしている。

そんな研究だった。

ただ。

数字や研究の話をいろいろ聞いた中で、

自分の頭に一番残ったのは、

もっと単純な言葉だった。

鶴田館長は、

一番大事なのは、

何もしないで
ゆったりすることなのではないか。

そんな趣旨のことを話していた。

それを聞いたとき、

ふと思った。

俺たち。

もう、

やっていたんじゃないか。


知らないうちに、博物館浴をしていた

今年4月から、

子どもたちと
おぶせミュージアムへ来る機会が増えた。

小布施町民は無料で入館できる。

それを知ったのが、

きっかけだった。

別に、

美術を勉強しようと思ったわけではない。

暇な休日。

子どもたちを連れて、

散歩のついでに入ってみる。

そんな始まりだった。

俺は、

絵に詳しくない。

技法も分からない。

画家の名前だって、

知らない人の方が
圧倒的に多い。

だから子どもたちに、

「この絵はこういう意味なんだぞ」

なんて教えることもできない。

代わりに聞いた。

「これ、何に見える?」

すると、

面白い答えが返ってくる。

その一言を聞いてから、

もう一度、

絵を見る。

すると、

さっきまで自分には
見えていなかったものが、

本当に見えてくる。

絵そのものは、

何一つ変わっていない。

変わったのは、

こっちの見方だった。

この感覚は、

今回が初めてではなかった。

最初にここへ来たときは、

息子と二人だった。

俺には「渦」に見えていたものを、

息子は、

「トンネルみたい」

と見ていた。

大人の自分が、

作品の意味や作者を
探そうとしている横で、

子どもの目は、

もっと自由に動いていた。

そのときのことは、

「動き続ける絵と、止まらない視線|令和収蔵品展」

に残している。

その次に来たときは、

姉妹と一緒だった。

風景画を前に、

「うちから見えるじゃん、コレ」。

絵の中に、

自分たちが暮らしている場所を
見つけていた。

その日のことは、

「見えているのは、同じ絵じゃない|令和収蔵品展Ⅱ期」

に書いた。

息子と見たとき。

姉妹と見たとき。

同じ美術館でも、

一緒に見る相手が変われば、

見えてくるものも変わった。

今回、

鶴田館長の話を聞きながら、

そのときの感覚を思い出した。

聞いてから見ると、

見る視点が変わる。

それを、

今回初めて知ったわけではなかった。

体験の方が、

先にあった。

子どもたちと絵を見ながら、

俺はすでに、

それを何度も経験していた。

今回、

そこに言葉がついただけなのかもしれない。

ただ。

ここで、

もう一つ思うことがある。


知らないまま見るのも、面白い

聞いてから見ると、

確かに見えるものは増える。

でも、

だからといって、

最初から全部聞いてしまえばいいとも思わない。

映画やドラマだってそうだ。

結末を知らずに見るから、

「この先どうなるんだろう」

と想像する。

絵も、

少し似ている気がする。

作者の名前を知らなくてもいい。

誰が描いたのかも知らず、

まず、

目の前の絵を見る。

「なんだこれ」

「なんか好きだな」

「この色、いいな」

「俺にはこう見える」

それでいい。

後になって、

「実は、ものすごく有名な画家の作品です」

と聞いたとしても、

その名前を知る前に
自分が感じたものまで、

間違いになるわけではない。

むしろ、

名前も肩書きも知らないときに感じた、

「好きだな」

とか、

「よく分からないな」

という感覚の方が、

自分にとっては
正直なのかもしれない。

子どもたちと絵を見ていると、

なおさらそう思う。

大人なら、

作者や題名を見て、

「これはこういう絵なんだろう」

と考えてしまう。

子どもは違う。

目の前にあるものを見て、

勝手に想像する。

俺とは違う答えを出す。

でも、

それで誰も困らない。

同じ絵を見て、

違うものが見えている。

それが面白い。

だから、

何も知らずに見る時間も、

大事にしたいと思う。

そして、

そのあとで話を聞く。

作者が誰だったのか。

何を見ていたのか。

どんな人生を送ったのか。

それを知って、

もう一度見る。

最初の自分の見方を
捨てるのではない。

そこに、

もう一枚、

見方を重ねる。

知ることは、

答え合わせをすることではない。

見方を、

一つ増やすことなのかもしれない。

ただし。

知らないままでいいものもあれば、

知らないままでは
終わらせたくないものもある。

この日の「聞いてから見る」は、

ここから、

ずっと重いところへ進んでいった。


きれいだと思うところから、歴史へ

館内を歩いていると、

中島千波さんの作品の前でも、

参加者の足が止まった。

人物画。

そして、

中島千波さんといえば思い浮かぶ、

桜。

作品を前に、

「きれいですね」

そんな声も聞こえてくる。

写真を撮る人もいた。

まず、

目の前の絵を見て、

きれいだと思う。

好きだと思う。

それだけでもいい。

さっき考えていたことを、

そのままやっているような時間だった。

けれど、

今回の展覧会の題名には、

「疎開画家たち」

という言葉がある。

その言葉の背景を聞いていくと、

作品の向こう側に、

もう一つの小布施が見えてくる。


戦争で、小布施へ来た人たち

その中心にいる一人が、

日本画家・中島清之だった。

中島清之は、

戦時中、

横浜から小布施へ疎開している。

疎開。

文字にすれば、

たった二文字だ。

けれど、

そこには当然、

暮らしがあった。

知らない土地へ来て、

人と会う。

話をする。

一緒に歩く。

そして、

親しくなる。

鶴田館長の話の中では、

中島清之が疎開中に親交を深めた、

詩人・林柳波の話も出てきた。

林柳波も小布施へ疎開し、

戦後は、

小布施村の初代公民館長を務めた。

戦争によって
この町へやって来た人が、

戦争が終わったあとも、

地域の文化や
人とのつながりの中で、

新しい役割を担っていった。

そして、

中島清之と小布施との縁も、

戦争が終わったからといって、

そこで途切れたわけではなかった。

1990年には、

中島清之の一周忌に合わせて、

小布施で特別展が開かれた。

その後、

小布施生まれの息子・中島千波さんの
作品寄贈などもあり、

1992年。

おぶせミュージアム・中島千波館の開館へと、

つながっていく。

戦争があったことを
肯定する話ではない。

もちろん、

そんなことではない。

ただ、

人の歴史をたどっていくと、

一つの出来事から伸びた線が、

何十年も先で、

別の線とつながっていることがある。

そして、

その先に、

今、

自分たちが立っている場所がある。

そう考えると、

この美術館そのものの見え方まで、

少し変わってくる。


昭和20年、小さな小布施で生まれた二人

館長の話の中で、

もう一つ、

妙に印象に残った話があった。

中島千波さんと、

春山文典さん。

二人とも、

昭和20年、

1945年に小布施で生まれている。

一人は、

日本画家。

一人は、

金属造形作家。

館長は、

「まだそこまで調べ切れていないんですけど」

と前置きしながら、

こんな想像を話していた。

当時の小布施に、

産婆さんが何人いたのかは分からない。

もし、

一人か二人ほどだったとすれば。

同じ1945年、

同じ小さな小布施で生まれた二人を、

取り上げた産婆さんまで、

同じ人だったのかもしれない。

もちろん、

確認された史実ではない。

館長自身も、

「もしかしたら」

という話として紹介していた。

でも、

その「もしかしたら」を聞くと、

1945年の小布施の景色を、

つい想像してしまう。

戦争が終わった年。

小さな町のどこかで、

二人の赤ん坊が生まれる。

同じ産婆さんが、

二人を抱き上げていたのかもしれない。

そう思うと、

少しほっこりする。

二人が小布施で生まれた理由も、

同じではない。

館長との話では、

春山文典さんの側には
母方の実家との縁があり、

中島千波さんの側には、

父・中島清之の疎開があった。

もし、

中島清之が小布施へ疎開していなければ。

中島千波さんと
小布施との関係も、

今とは違っていたかもしれない。

今のおぶせミュージアムも、

別の形になっていたのかもしれない。

誰が、

どこへ行ったか。

誰と出会ったか。

どこで子どもが生まれたか。

そんな出来事が、

何十年も先まで、

つながっている。


本館から木造館へ。話はつながっていた

本館の展示を見たあと、

一行は木造館へ移った。

おぶせミュージアム木造館の入口と小林聖花展の案内看板
木造館入口に掲げられた小林聖花展の案内。「ある小布施の画家がみた光景」が開催されていた。

開かれていたのは、

「小林聖花展
―ある小布施の画家がみた光景」。

一見すると、

ここから別の画家の話へ移ったようにも見える。

でも、

そうではなかった。

この展覧会は、

長野県立美術館との交流名品展

「信州のダイナミズム
―疎開画家たちの作品を中心に―」

の関連展示として企画されたものだった。

そして、

展示の開催趣旨を読むと、

戦後しばらく小布施で過ごした中島清之と、

小布施に生まれた画家・小林聖花には、

交流があったという。

さらに、

小林聖花が中島清之から、

絵画について教わる機会もあったのではないか。

そんなことも記されていた。

本館で見ていた、

疎開によって生まれた人のつながり。

その線は、

木造館に入っても、

まだ続いていた。


木造館で出会った、小布施の画家

小林聖花。

本名・小林國雄。

1920年、

小布施に生まれた。

展示されていた略歴をたどると、

18歳で帆船日本丸に乗船。

世界を見る。

19歳のときには、

《ホノルルの麗人》を制作している。

小林聖花《ホノルルの麗人》。海辺で椅子に腰掛け、レイを身につけた女性を描いた作品
海辺の明るい空気と、椅子に腰掛けた女性の姿が印象に残る一枚。

その後、

満州へ渡り、

戦地に召集され、

沖縄戦などを経験した。

そして、

台湾で終戦を迎え、

戦後、日本へ帰還している。

若い頃に見た海外。

満州。

戦争。

沖縄。

引揚げ。

そして、

戦後。

一人の人間が生きてきた時間が、

いくつもの作品になって、

木造館の中に並んでいた。

作品を追っていくと、

一人の画家の人生そのものを、

少しずつたどっているようだった。

鶴田館長は、

小林聖花の作品について、

「小布施の宝」

とも言えるのではないか。

そんな趣旨のことを話していた。

小布施に生まれ、

外の世界を見て、

戦争を経験し、

その記憶を絵として残した一人の画家。

その作品が、

今も小布施に残っている。

一人の画家の作品というだけではない。

それもまた、

小布施が持っている文化であり、

この町に残された、

一つの宝なのだと思う。

※小林聖花さんの作品写真は、
おぶせミュージアムで撮影許可をいただいております。


二つの「もしかしたら」

ここで、

さっきの話を思い出した。

中島千波さんと、

春山文典さん。

もしかしたら、

同じ産婆さんに
取り上げられたのかもしれない。

想像すると、

どこか温かい。

ところが、

小林聖花の話に出てきた

「もしかしたら」は、

まるで違った。

《戦艦武蔵死闘の圖》。

小林聖花《戦艦武蔵死闘の圖》。激しい波と爆発の中で戦艦武蔵の最期を描いた屏風作品
荒れる海と爆発の中に、戦艦の最期が屏風いっぱいに描かれている。

展覧会の開催趣旨には、

この作品について、

小林聖花が

「自分が乗るはずだった戦艦が沈む様子を描いた作品」

として紹介されていた。

鶴田館長からも、

小林聖花が戦艦武蔵に乗る可能性は

非常に高かった、

という趣旨の話を聞いた。

作品札には、

1944年10月24日、

フィリピン・レイテ沖のシブヤン海で、

米艦載機による空襲を受けた

戦艦武蔵の姿を描いたものだとある。

作品が制作されたのは、

1975年。

小林聖花、

55歳のときだった。

戦争が終わってから、

30年が経っている。

もし、

本当に武蔵に乗っていたら。

その先の人生は、

どうなっていただろう。

後に残された絵も、

今ここで聞いている話も、

なかったかもしれない。

同じ、

「もしかしたら」。

一方は、

人が生まれる光景を想像させる。

もう一方は、

人の生死を想像させる。

同じ言葉なのに、

そこにある景色は、

あまりにも違う。


戦争が終わっても、描くことは終わっていなかった

小林聖花の作品を見ていて、

強く引っかかったことがある。

戦争に関わる作品のいくつかが、

戦争の最中ではなく、

ずっと後になって描かれている。

展示されていた作品の制作年を追っていくと、

1975年。

1984年。

1987年。

1988年。

戦争が終わってから、

何十年も経ったあとまで続いている。

戦争は、

とっくに終わっている。

それでも、

描くことは終わっていなかった。

展示の開催趣旨には、

《幽兵圖》について、

戦後、

沖縄戦を回想して描いた作品だと記されていた。

小林聖花《幽兵圖》。暗い背景の中に兵士たちが座り込む姿を描いた屏風作品
暗闇の中に、疲れ切ったような兵士たちの姿が浮かび上がる。

戦争が終わって、

何十年も経ってから。

もう一度、

あの時間を思い出して描く。

そして、

1988年に描かれた作品も、

戦後40年以上が経ってからのものになる。

小林聖花《引揚苦難圖》。船を降りた人々が列をなして歩く姿を描いた縦長の作品
長い列をつくって歩く人々の姿が、縦長の画面いっぱいに描かれている。

人の記憶は、

時間が経てば薄れていく。

忘れることもある。

それでも、

何十年も経ってから、

絵にしなければならなかったものがある。

館長からも、

小林聖花の戦争に関わる作品について、

本人の体験や記憶をもとに、

後になって描いたものだという話を聞いた。

また、

息子さんから伝わった話として、

小林聖花は戦時中から、

大国を相手にして、

本当に勝てるのか。

なぜ、

こんな戦争をするのか。

そんなことを感じていたのではないか、

という話も紹介された。

満州へ渡り、

戦地を経験し、

沖縄戦を経験し、

台湾で終戦を迎えた。

世界を実際に見てきたからこそ、

感じていたものがあったのかもしれない。

もちろん、

今の自分が、

その時代の本人の心の中まで、

分かったように言うことはできない。

ただ、

残された絵を見ることはできる。

そして、

その絵の前で、

伝わってきた話を聞くことはできる。


戦争の絵を見ても、何かが足りなかった

戦争の絵を見れば、

怖いと思う。

戦艦。

砲撃。

爆発。

兵士。

壊れたもの。

逃げる人。

死。

戦争を経験していない俺でも、

その恐怖は感じる。

でも。

絵の前に立ちながら、

何かが足りないような気がした。

恐怖とは別の、

何かが。

音なのか。

匂いなのか。

暑さなのか。

寒さなのか。

腹の減りなのか。

眠れない夜なのか。

それとも、

昨日まで隣にいた人が、

今日はいない。

そんな感覚なのか。

分からない。

どれだけ言葉を並べても、

たぶん違う。

映画を見て、

想像することはできる。

本を読むこともできる。

絵を見て、

怖かっただろうと
考えることもできる。

でも、

自分はその時代を生きていない。

戦地へ行ったこともない。

研究してきたわけでもない。

だから、

分かったようなことは言えない。

もしかすると、

自分たちに足りないものは、

実際にその時間を生きた人だけが持っている、

身体の記憶なのかもしれない。

そこまで完全には届かない。

だから、

何があったのか。

誰がそこにいたのか。

何を見たのか。

なぜ、

その人は絵に残したのか。

聞いてみる。

知ることは、

「この絵の正しい見方」を

教えてもらうためではない。

その人が残したものを、

少しでも受け取るためなのだと思う。

全部を理解できなくても。

同じ痛みを感じることができなくても。

自分には分からない。

だから、

聞く。


洞窟から、宇宙へ

小林聖花の作品を前に、

館長の説明を聞く。

沖縄戦。

壕や洞窟での体験。

戦艦。

引揚げ。

自分が見たもの。

自分が生きた時間。

それらが、

何十年も経ってから、

絵になっている。

その中で、

また違う問いを投げかけてくる作品があった。

《連合艦隊レイテに向かう》。

小林聖花《連合艦隊レイテに向かう》。海上の艦隊と、仏やキリストを思わせる像を描いた屏風作品
軍艦と宗教的な像が同じ画面に置かれた、異質な組み合わせが目を引く。

海を進む艦隊。

その上には、

キリストを思わせる姿と、

仏の姿が描かれている。

館長の話を聞いて、

引っかかったのは、

そこだった。

同じ人間でも、

信仰するものは違う。

祈る相手も、

信じる世界も違う。

館長の話では、

そうした異なる宗教的な世界が、

一つの画面の中に置かれていること自体も、

この作品を見る一つの視点なのだという。

同じ人間。

違う信仰。

そして、

その下には、

海を進む艦隊がある。

その異質な組み合わせが、

妙に目に残った。

そして、

さらに視点を大きく広げる作品があった。

《望郷曼荼羅圖》。

小林聖花《望郷曼荼羅圖》。暗い画面に兵士たちと中央の仏像を描いた屏風作品
暗い戦場の記憶と、中央に広がる宗教的な世界が一つの画面に重なっている。

画面の下には、

戦争の中で苦しんでいるような、

兵士たちの姿がある。

その上には、

まったく違う世界が広がっている。

中央には、

鮮やかな色で描かれた大きな像。

館長の説明では、

「おそらく大日如来ではないか」

ということだった。

館長は、

曼荼羅には、

胎蔵界や金剛界と呼ばれるものがあり、

中心に大日如来を置き、

その周囲に世界を表していく、

そんな考え方があると説明してくれた。

さらに、

画面の左上へ目をやる。

そこには、

惑星や、

地球を思わせるような、

小さな天体のようなものまで描かれている。

下には、

戦争の中にいる人間。

その上には、

宗教的な世界。

さらに、

その先には、

宇宙を思わせるもの。

館長は、

小林聖花が、

戦争とは何だったのかということを、

もっと大きな、

「宇宙」

というところから、

考えようとしたのではないか。

そんな趣旨のことを話していた。

本人が残した答えではない。

館長による、

一つの見方だ。

でも、

その話を聞いてから、

もう一度作品を見る。

すると、

さっきまで、

色や形としてしか見えていなかったものが、

違って見えてくる。

壕や洞窟の中まで、

人間に近づいていく視点。

そして今度は、

宇宙まで離れて、

人間や戦争を見る視点。

すぐそばまで近づく。

そして、

途方もなく遠くまで離れて見る。

同じ画家の中に、

その両方がある。

そこが、

ものすごく面白かった。


絵は、記憶を渡す方法なのかもしれない

館長と話している中で、

こんな話にもなった。

音楽家なら、

音で表現する。

作家なら、

文章で表現する。

画家なら、

絵で表現する。

方法は違っても、

そこには、

何か伝えたいものがある。

作品には、

それが滲み出る。

そんな趣旨の話だった。

小林聖花は、

戦争が終わってからも、

何十年にもわたって、

自分の体験や記憶を描いた。

人は、

いつかいなくなる。

記憶も、

少しずつ薄れていく。

人から人へ伝わる話だって、

時間が経てば、

曖昧になる。

でも、

描かれたものは、

残ることがある。

書かれたものも、

残ることがある。

音も、

写真も、

残ることがある。

そこにいた人が、

自分の見たものや、

感じたものを、

自分がいなくなったあとまで、

誰かへ渡す。

絵というものは、

そのための方法でもあるのかもしれない。

そして、

誰かがその絵の前に立ち、

何かを感じる。

「きれいだな」

でもいい。

「怖いな」

でもいい。

「なんだこれ」

でもいい。

そこから、

その人のことを知ろうとする。

すると、

何十年も前の人の記憶と、

今を生きている自分との間に、

細い一本の線ができる。

そう考えると、

今、

自分がこうして文章を書いていることも、

少しだけ似ている。

9月2日。

この場所で、

自分が何を見たのか。

何を聞いたのか。

何を考えたのか。

全部は残せない。

それでも、

書いておけば、

何か一つくらいは、

次へ渡せるのかもしれない。


俺は、小林聖花の絵が好きだった

戦争を描いた絵は、

決して明るくない。

殺伐としている。

怖い。

戦艦に砲撃が飛び、

爆発が起きる。

兵士がいる。

人間魚雷も描かれている。

小林聖花《人間魚雷の圖》。人間魚雷の断面と上空の艦隊が描かれた屏風作品
小林聖花《人間魚雷の圖》全景。離れて見ると、まず屏風いっぱいに広がる構図が目に入る。

近づいて見ると、

さらに目が止まった。

人間魚雷の内部に、

細かな文字がびっしりと描き込まれている。

小林聖花《人間魚雷の圖》の内部に描き込まれた文章を拡大した4枚の写真
近づいて初めて見えてくる、人間魚雷の内部に残された細かな言葉。

ただの説明書きではない。

「私は死んでも、
いつまでもみんなあなた方をお守りしていきます」

そう読める言葉がある。

「わが人生は二十なり」

そう読める言葉もある。

父や母。

家族。

残される人たち。

兵器の中に描かれていたのは、

機械だけではなかった。

人間の言葉だった。

遠くから見れば、

人間魚雷の絵。

近づいて見ると、

そこには、

一人ひとりの人生があった。

※作品中の文字は、撮影した写真から判読できた範囲で記しています。

それでも、

不思議と、

目を離せなかった。

細かなところまで、

人や物が描き込まれている。

戦争の絵なのに、

どこか独特の描き方がある。

怖い。

でも、

見てしまう。

俺は、

小林聖花の絵が、

嫌いではなかった。

むしろ、

好きな方だった。

なぜ好きなのかと聞かれると、

うまく説明できない。

でも、

最初から全部を説明できなくてもいい。

「なんか好きだな」。

最初は、

それでいいのだと思う。

そして、

そのあとで、

この人は誰だったのかを知る。

どこへ行ったのか。

何を見たのか。

どんな時間を生きたのか。

知ってから、

もう一度見る。

すると、

最初に感じた、

「なんか好きだな」

という気持ちにも、

もう一枚、

何かが重なる。


聞いてから、もう一度見る

今年4月、

子どもたちとこの美術館を歩いたとき。

あのときは、

子どもの一言だった。

今回は、

その絵を描いた人の人生だった。

同じ、

「聞いてから見る」。

でも、

そこにあったものの重さは、

まるで違った。

それでも、

自分一人では、

見えていなかったものが、

誰かの言葉によって、

少しだけ見えるようになる。

人によって、

見え方が違ってもいい。

同じ絵を見て、

同じことを思う必要もない。

同じものを見て、

違うことを感じる人がいる。

中島千波さんの桜を見て、

「きれいだな」

と思う人がいる。

小林聖花の戦争画を見て、

「怖い」

と思う人がいる。

俺みたいに、

怖いと思いながら、

それでも、

「この人の絵、好きだな」

と思う人もいる。

それでいい。

それでも、

同じ絵の前に、

一緒に立つことはできる。

たぶん、

それでいいのだと思う。

おぶせミュージアム館内で鶴田典昭館長と並ぶ筆者
9月11日の再訪時、鶴田典昭館長と。記事を書くにあたり、展示資料や作品についてあらためてお話をうかがった。

変わったのは、見る側だった

館内を回り終える頃、

最初の「博物館浴」の話に戻った。

館長が、

「今日、皆さん、
ちょっと寿命が延びたんじゃないかな」

そんなふうに話していた。

本当に何日延びたのかは分からない。

この日は、

血圧も測っていない。

けれど、

今年4月から、

子どもたちと何気なく通ってきた、

おぶせミュージアムで、

この日は、

いつもとは少し違うものを、

見た気がする。

絵を見た。

話を聞いた。

戦争について考えた。

小布施へ疎開してきた人のことを知った。

そこで生まれた、

人と人とのつながりを知った。

同じ年、

同じ町で生まれた二人を想像した。

そして、

中島清之と小林聖花の間にも、

この町で生まれた交流があったことを知った。

疎開。

出会い。

誕生。

絵。

記憶。

それぞれ別々に見えていたものが、

小布施という一つの町の中で、

少しずつつながっていく。

そして、

小布施に生きた一人の画家が、

自分の記憶を、

何十年も経ってから、

絵として残したことを知った。

館長が、

小林聖花の作品を、

「小布施の宝」

とも言えるのではないかと話していた意味も、

少し分かったような気がした。

宝というのは、

有名だから宝なのではないのかもしれない。

高価だから、

宝なのでもない。

この町に生まれた人が、

生きた時間を残し、

それが今も、

誰かに何かを伝えている。

それもまた、

町の文化であり、

宝なのだと思う。

何も知らずに見る。

自分なりに感じる。

誰かの話を聞く。

そして、

もう一度見る。

どちらが正しい、

という話ではない。

知らないから見えるものもある。

知ったから見えるものもある。

そう考えると、

「博物館浴」という言葉も、

単に健康に良いとか、

血圧がどうとか、

それだけの話ではないような気がしてくる。

博物館で、

誰かと一緒に見る。

誰かの話を聞く。

知らなかった人の人生を知る。

自分とは違う見方に出会う。

昔の人と、

今を生きる自分が、

一枚の絵を通してつながる。

そして、

その人が残したものを、

自分なりに受け取る。

それもまた、

この場所で起きていることなのかもしれない。


午前9時30分。

この美術館に入ったときから、

絵はそこにあった。

聞く前も。

聞いたあとも。

同じ絵である。

絵は、

何も変わっていない。


変わったのは、

見る側だった。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

これからも、小布施で見たこと、家族と歩いたこと、自分が生きてきた時間を、言葉として残していきます。

もし、何か一つでも心に残るものがあれば、

👣足あとを残していただけると励みになります。


このブログは、

迷いながらも歩き続ける、

私の「みちしるべ」です。


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