初陣
7月1日。
役場の駐車場に着いたのは、
午前8時28分。
出発まで、
あと2分。

急いで北斎ホールへ。
……誰もいない。
「あ、終わった。」
そう思った。
慌てて役場二階へ駆け上がる。
「皆さんなら、
北斎ホールの中ですよ。」

外を必死に探していたのは、
どうやら私だけだった。
───
見学場所の参考資料が配られ、
バスに乗り込み、
点呼も終わる。
さあ、
いよいよ出発だ。

行き先は分かっている。
でも、
どんな場所なんだろう。
どんな話が聞けるんだろう。
そんなことを考えながら、
バスは上田へ向けて走り出した。
バスに揺られること、
およそ一時間。
最初の見学地、
上田市常田の毘沙門堂へ到着した。
常田毘沙門堂

常田毘沙門堂は、上田市指定史跡である。
バスを降りると、
静かな空気が流れている。
地元の皆さんが、
笑顔で迎えてくださった。
そのまま堂内へ案内され、
一人の男性が話し始めた。

「皆さん、ようこそ。こんな狭い我が家へ。」
その一言に、
参加者から笑いが起こる。
「私は、毘沙門堂祭事委員会の
代表をしております、山辺と申します。」
山辺さんのお話によると、
この毘沙門堂は、
上常田・中常田・下常田・北常田の
地域の四つの区が力を合わせ、
大切に守り続けているそうだ。

「これからも、何かのご縁ですから。」
そう話したあと、
「お賽銭箱は、あちらにございます。
神様でも入れていただけたら、大騒ぎです。」
その一言に、また大きな笑いが起こった。
初めて訪れた場所。
少し張っていた空気も、その笑いで、
ふっと和らいだような気がした。
───
笑いが落ち着くと、山辺さんは、
毘沙門堂の歴史を話し始めた。
現在残っている建物は、およそ百年前に、
現在の場所へ移されたものだそうだ。
もともとの毘沙門堂は、
今ある場所から、もう少し奥、
当時の北国街道沿いに面して建っていたという。
その後、現在の場所へ移され、
今日まで地域の人々によって、
大切に守り続けられてきたそうだ。
境内には、
活文禅師の功績をたたえる石碑が建っている。

新しい石碑は、片仮名も交じるため、
何となく内容が分かる。
しかし、隣の古い石碑は、すべて漢文。
「私には、何のことだか、さっぱり分かりません。」
その一言に、会場は笑いに包まれた。
「活文禅師のお骨も、この石碑の下に埋まっているとも、
いないとも言われています。それも、さっぱり分かりません。」
「私は残念ながら、お会いしたことはありません。」
山辺さんの軽妙な語り口に、
会場は終始和やかな雰囲気に包まれた。
歴史を伝えるだけでなく、聞く人を楽しませる。
そんな山辺さんの人柄に、私たちも自然と引き込まれていった。

さらに山辺さんは、活文禅師の話を続けた。
様々な言語や文学、書画に精通し、
門下からは、佐久間象山、高井鴻山、
山寺常山、竹内八十吉、赤松小三郎など、
後に歴史に名を残す人々が育ったという。
その話を聞きながら、私たちもまた、
この場所で歴史を学んでいることに気づく。
時代は違っても、人から人へと
知識や想いが受け継がれていくことは、
昔も今も変わらないのかもしれない。
その話を聞いた金田先生が、
山辺さんへ尋ねた。
「小布施にゆかりのある方で、高井鴻山のほかに、
智関尼さんと、智紋尼さんをご存じでしょうか。」
「いや、知りませんでした。」
山辺さんのその返事に、
第一回講座でいただいた資料が頭によみがえった。
一九九二年発行の『栗の詩』第七号、第八号。
フリーライター・畔上柊子さんが書かれた記事だ。

あの時は、ただ資料を読んでいただけだった。
でも今、その場所に立っている。
点と点が、少しずつ、
一本の線につながっていく。
何とも不思議な感覚に包まれた。
───
金田先生は、
「あの時探した智関尼のお墓は、
この毘沙門堂の裏にあるんです。」
と教えてくださった。
私たちは、
金田先生と山辺さんの後に続き、
毘沙門堂の横を通り、
公民館との間にある小さな場所へ向かった。

石碑が並ぶ中、
先生は一つのお墓の前で足を止める。
「あの頃はね、
いろんな資料をリュックに詰め込んで、
スコップを持って、防寒着を着て、
雪の中を何度も何度も歩いたの。」
そう話しながら、
私たちに配られた資料を開き、
『栗の詩』第七号七ページを指さした。
そこには、
中野市田上の菩薩寺長福寺の山門と、
智関尼、智紋尼それぞれのお墓の写真が掲載されていた。

「この写真も、私が行った時に撮ったものなの。」
先生はそう話しながら、
当時を思い出すように、
静かに写真へ目を向けた。
白黒写真ではあるものの、
実際に目の前の景色と見比べると、
その違いがよく分かる。
大きく姿が変わったわけではない。
それでも、
後ろの塀など、細かな違いから、
三十年ほどの歳月が流れたことを感じることができた。
資料の写真と、
今目の前にある風景。

その二つが重なった瞬間、
歴史がぐっと身近に感じられた。
そして、
目の前のお墓を見つめながら、
先生は静かに言った。
「本当に、ここへたどり着いて、
お墓を見つけた時は、嬉しかった。
本当に、嬉しかった。」
その言葉を聞いて、私にも、
その時の喜びが伝わってくるようだった。

静かに手を合わせ、
私たちは毘沙門堂を後にした。
───
バスへ乗り込む。
窓の外では、
山辺さんをはじめ、地元の皆さんが、
最後まで手を振ってくださっている。
私たちも、
窓越しに手を振り返した。

小布施ロマン号が、
ゆっくりと動き出す。
山辺さんたちの姿は、
少しずつ、小さくなっていった。
車窓を眺めながら、
先ほど聞いた話を、何度も思い返していた。
資料の中だけだった歴史が、
今日、目の前の風景とつながった。
そんな余韻を胸に、小布施ロマン号は、
次の見学地、信濃国分寺へ向かった。
八日堂・信濃国分寺
バスが停まると、金田先生が、
満面の笑顔で話し始めた。

「ここはね、一月八日の八日堂縁日になると、
たくさん露店が並んでね。チョコバナナも美味しいの。」
少し嬉しそうに話す先生。
「それとね、小布施ロマン号が停まったこの場所。
ここは、じゃがバターのお店なの。とても美味しいのよ。」
歴史の話を聞きに来たはずなのに、
頭の中は、もう、じゃがバター。
先生が本当に美味しそうに話すものだから、
まだ何も食べていないのに、
すっかり食べたくなってしまった。
そんなことを思いながら、
私たちは笑顔でバスを降りた。

三十分ほどの自由時間。
境内を歩く人。写真を撮る人。
私は、ゆっくりと境内を見て回った。
その後、本堂へ入り、
戸倉上山田の東国寺から、
法務の為に来られた住職のお話を伺った。
本堂へ入ると、すぐ目の前には、
おびんずる様が二体、並んで鎮座していた。

「どうして二体あるんだろう。」そう思いながら、
私は両方のおびんずる様を、そっと撫でた。
二体のおびんずる様が並ぶ姿は、
私には珍しく映り、初めて見る光景に、
少し戸惑いながら見つめていた。
ふと左奥へ目を向けると、
そこには白い象。
花まつりの頃になると、
美しく飾られるそうだ。

厳かな本堂の中に佇む白い象は、
どこかユーモラスな光景にも見えた。
受付を通り、畳へ上がる。
───
正面には、薬師如来。
その両脇には、日光菩薩、月光菩薩。
この三尊を合わせて、
「薬師三尊」と呼ぶそうだ。
その周りには、
薬師三尊を守る十二神将。
「十二神将が、三百六十五日、
二十四時間、薬師三尊を守っているんです。」
と教えてくださった。
本来なら、
四天王も祀られるそうだが、
ここにはない。
「なぜないのかは、私にも分かりません。」
その一言に、思わず笑みがこぼれる。
───
やがて、お話は、長野県に今も残る、
神仏習合の歴史へと移った。
「日本では、もともと神様への信仰があり、その後に、
仏教が伝わってきた。だから、神が先、仏が後なんです。」
そう説明されたあと、
神様へお参りする時も、仏様へお参りする時も、
手を合わせ、願いを込める人の姿は変わらない。
形は違っても、人が祈る心は同じなのだと、
分かりやすく教えてくださった。

その後、長い年月をかけて、
神様と仏様の信仰は一つとなり、
神仏習合として受け継がれてきたという。
戸隠では、神社とお寺が共に歩み、
神仏分離によって、
僧侶が神職になったり、
寺院だった建物が、
蕎麦屋として今も残っていたりすること。
また、東国寺では、
戦乱から鐘を守るため、
千曲川へ沈められた鐘が、
長い年月を経て再び戻り、
今も法要のたびに鳴らされているという。
建物だけを見ていては分からない、
信仰の移り変わりや、
人々が大切に受け継いできた祈りの心を、
改めて知ることができた。

本堂を後にし、境内をゆっくり歩く。
そして、山門に立った、その時だった。
「あれ……。ここ、来たことがあるかも。」
もう一度、辺りを見回す。
「あれ?ここ、だるま市じゃなかったっけ。」
どこか懐かしい。
でも、はっきりとは思い出せない。
そのまま集合時間となり、
私たちは小布施ロマン号へ戻った。
───
バスが走り出してから、
近くの参加者の方へ聞いてみた。
「信濃国分寺の八日堂縁日って、
だるま市のことですよね?」
すると、
「そうですよ。
八日堂縁日とも言いますけど、
だるま市とも呼ばれています。」
そう教えてくださった。
その言葉を聞いた瞬間、
止まっていた記憶が、一気につながった。
若い頃、仲の良かった友人の
的屋の手伝いで来た場所だった。
一緒にたこ焼きを焼き、
「いらっしゃい!いらっしゃい!」
と声を張り上げていた、あの頃の自分が、
目の前によみがえってきた。

歴史を学ぶために訪れた信濃国分寺。
そこで出会ったのは、
仏教の歴史だけではなかった。
神様も、仏様も、
願いを込めて手を合わせる人の姿は変わらない。
住職さんのその言葉が、
今も心に残っている。
思いがけず、若い頃、
的屋の手伝いをしていた自分の記憶まで、
よみがえってきた。
それもまた、この旅でいただいた、
大切なご縁だったのかもしれない。
再び、小布施ロマン号は、
次の目的地、長福寺へと向けて走り出した。
信州夢殿・長福寺
長福寺へ到着すると、
境内の入口で、
仲良く寄り添う
「なかよし地蔵」が迎えてくれた。

穏やかな表情を眺めながら歩いていくと、
夢殿の入口に、
「日本遺産」
と書かれた案内板が立っていた。

そこには、
長福寺銅造菩薩立像が、
国の重要文化財であることや、
飛鳥時代、
七世紀頃に造られた仏像であることが紹介されている。
その横には、
信州夢殿の縁起が記された案内板。

説明を読むほどに、
これから拝観する夢殿への期待が高まっていく。
私たちは、
赤い幟が風に揺れる道を進み、

八角形の夢殿へ向かった。
歴史ある建物へ向かう参加者の後ろ姿を眺めながら、
私もその列に加わった。
───
夢殿へ到着すると、
住職さんから、
建立についてのお話を伺った。

現在、
夢殿に祀られている銅造菩薩立像は、
長年、
小布施町都住の吉沢家で
大切に守られてきたそうだ。
そして、
一九三八年(昭和十三年)、
吉沢家から長福寺へ移され、
戦局が激しさを増す中、
「皆が笑顔で暮らせるように」
との願いを込めて、
「救世観音」
と名付けられたという。
その救世観音をお祀りするため、
大塚工芸社創立者、
大塚稔氏の発願と寄進により、
信州夢殿が建立されたという。
しかし、
当時は戦時中。
瓦は京都で焼かれ、
木材をはじめとする資材は県内外から運ばれ、
必要な資材が揃うまでに、
三年もの歳月を要したという。
戦時中という厳しい時代にもかかわらず、
多くの人々の願いと努力によって、
この夢殿は完成したのだった。
───
住職さんは、
さらに、
千手観音のお話をしてくださった。
こちらのお寺では、
平安時代から室町時代にかけて造られたとされる
千手観音が見つかり、
現在、
重要文化財の指定に向けて、
申請を進めている最中だという。
「大変貴重な千手観音様でございます。」
その言葉を聞き、
これから目にするものへの期待は、
さらに膨らんだ。
───
いよいよ、
私たちは順番に、
八角形の夢殿へ入った。

堂内は、外の賑やかさとは別世界。
静まり返った空気の中に、
凛とした、どこか神秘的な時間が流れていた。
中央には、厨子。その扉が開かれると、
まず目に入ったのは、
五色の糸で結ばれた救世観音だった。
観音様から伸びる、五色の糸。
救世観音と、私たちを結ぶ糸。
私には、まるで、
運命の赤い糸のようにも思えた。
静かに手を合わせる人々と、救世観音を、
優しく結んでいるようにも感じられた。
───
その後、住職さんは、
救世観音について話してくださいました。
この観音様は、
これまでに三度も、盗難に遭われたそうだ。
しかし、その都度、
無事にこの長福寺へお戻りになられたことから、
「お戻り観音」
と呼ばれるようになったという。
三度目の盗難では、
本物が戻ってくるまでの間、
お姿をもとに制作された
「お戻し観音」が、
その役目を守り続けていたそうだ。
本物のお戻り観音が戻られたあとも、
お戻し観音は、
今もお戻り観音の前で、参拝者を迎えている。
どこかよく似た、二体の観音様。
一体は、幾度もの苦難を乗り越え、
その都度、この場所へ戻って来られた、
お戻り観音。もう一体は、
本物がお戻りになられるまで、
その留守を預かり、
人々を見守り続けた、お戻し観音。
その二体を前にすると、住職さんの言葉が、
静かに胸へ染み込んでいった。
そして、ゆっくりと、
お戻り観音のお顔へ目を向ける。
穏やかに微笑んでいる。
それなのに、
その視線は少しも動じることなく、
まるで、自分の心の奥を、
静かに見つめられているような感覚だった。

住職さんは、
「お戻り観音ですから、
旅に出た方が無事に戻る。
忘れていた記憶が戻る。
それから、
人にしたことは、
良いことも悪いことも、
いつか自分に戻ってくる。
そういうことも、
教えてくださる観音様なんですよ。」
そう話してくださいました。
───
夢殿の中を、ゆっくり一周すると、
出口の近くに、小さな厨子があった。
その中には、一体の千手観音様。
夢殿のご本尊よりも、
さらに小さなお姿だった。
私は、その千手観音様の前で、
思わず足を止めた。
小さなお姿なのに、
気が付くと、じっと見入ってしまう。
言葉では言い表せない、
不思議な存在感があった。
先ほどまで見ていた、お戻り観音。
そして、
本物がお戻りになられるまで、
その留守を預かり、人々を見守り続けた、
お戻し観音とは、また違った空気をまとい、
静かにそこへ佇んでいた。
もし、
また拝観できる機会があるのなら、お戻り観音。
そして、静かにその役目を果たし続けた、
お戻し観音。この千手観音様にも、
もう一度会いに来たい。
そんな思いを胸に、静かに夢殿を後にした。

長福寺を後にしても、
あの穏やかな観音様の微笑みは、
いつまでも心に残っていた。
昼食と畔上柊子さん
長福寺を後にした私たちは、
昼食会場の海山亭いっちょう 上田秋和店へ向かった。
豊富なメニューが並ぶ中、
昼食は各自が好きなものを注文する。
食事を終えると、
役場の添乗員さんが、
笑顔で話してくださいました。
「皆さん、『栗の詩』の記事を書かれた、
フリーライター・畔上柊子さんを
ご存じの方はいらっしゃいますか。」
そう尋ねられましたが、
誰も手を挙げませんでした。
その時、質問をされた参加者の方は、
ちょうど席を外されていました。
私は帰りのバスで隣の席になったことで、
その方が質問されたご本人だったと知りました。
添乗員さんは、嬉しそうに続けます。
「先生、嬉しいことがあったんですよね。
今回の大人の遠足の道中で、参加者の方から、
こんな質問があったそうなんです。」
「畔上柊子さんは、本当に素晴らしい記事
を書かれますが、今もご存命なんですか。」
すると先生は、少し照れくさそうな、
それでいて嬉しそうな表情で、
「それは、私のペンネームなんです。」
と答えられたという。その瞬間、
会場から自然と拍手が起こった。
恥ずかしそうに微笑む先生の代わりに、
役場の添乗員さんが、
話を続けてくださった。
私は、講座を通して抱いていた謎が、
ようやく解けた気がした。
現地を歩きながら語られる話。
三十年前に撮影された写真。
資料の細かな内容まで知り尽くしている理由。
すべてが一本につながった瞬間だった。
「先生には、まだまだ長生きしていただかないと困りますね。」
その一言に、会場は温かな笑いと拍手に包まれた。
歴史を調べ、歩き、記録し、
そして伝え続けてきた人がいたからこそ、
私たちは今日、その場所を訪れ、
歴史を学ぶことができた。
そんな感謝の気持ちを胸に、
私たちは小布施への帰路についた。

家族の食卓
長福寺を後にする前に、
住職さんから、
どら焼きをいただいた。
境内では、
ポン菓子でできたポンせんべいをお土産に買い、
家族一人ひとりに、
救世観音のキーホルダーを選んだ。
───
帰宅すると、
学校から帰ってきた息子は、
机に向かい、
宿題をしていた。
私が荷物を下ろし終えると、
「お父さん、見てよ!
大きなトマトが赤くなってきたんだよ!」
そう言って、
私の手を引きながら、
畑へ連れて行ってくれた。

自分で育ててきたトマトが、
ようやく赤く色づき始めたことが、
嬉しくてたまらないのだろう。

その自慢げな笑顔を見ていると、
こちらまで嬉しくなってくる。
畑をひと回りしたあと、
私は家へ戻り、シャワーを浴びた。
息子も、
畑の水やりで濡れたズボンを履き替え、
手を洗うと、再び机へ向かい、
日記を書こうとしていた。
シャワーを終えて戻ると、
長福寺でいただいたどら焼きを、
美味しそうに頬張りながら、
日記を書き進める息子の姿があった。

その後、
仕事帰りに妻が姉妹を迎えに行き、
家へ戻ってきた。
私はタバコに火をつけ、
今日一日の出来事を思い返していた。
目の前では、
息子が夢中になってクワガタの世話をしている。

気が付くと、
妻と姉妹もお風呂から上がってきていた。
目の前には家族がいるのに、
頭の中では何度も長福寺を歩いていた。
今回の講座を記事にするため、
見た景色や、聞いた話を、
一つひとつ思い返していた。
いつもの賑やかな夕方が始まった。
庭で枝豆を収穫してきた息子へ、
「ありがとう。終わったら手を洗ってね。」
「穣。日記を書いたら、お風呂に入っちゃってね。」
と、いつものように声をかけていた。

長福寺で買ってきた
救世観音のキーホルダーを、
夕食の時間に、家族一人ひとりへ手渡した。

先ほどまで、子どもたちへ声をかけていた妻。
それなのに、食卓では、
子どもたちが笑い合う姿を、ただ静かに見つめ、
穏やかな微笑みを浮かべていた。
その瞬間、長福寺で見た、
救世観音のお顔が、ふと頭に浮かんだ。
アルカイックスマイル。
時を越えて受け継がれてきた、
あのアルカイックスマイルは、
長福寺の夢殿だけではなく、
我が家の食卓にもあった。
歴史を学ぶために訪れた長福寺。
最後に私の心へ残ったのは、
救世観音の微笑みと、家族の笑顔だった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
こうした何気ない一日を、
これからも記録として残していきます。
もし気に入っていただけたら、
👣足あとを残していただけると励みになります。
歩きながら、
少しずつ繋がっていった記録です。


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