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信州 赤塩焼き⑥|名前が消えても、残るもの

赤塩焼と考えられるこね鉢で生地をこねる親子 赤塩焼シリーズ

【信州 赤塩焼き|シリーズ】

▶︎ ① あそこだと気づいた日
▶︎ ② 手の中に残っていたもの
▶︎ ③ あのトンネルで見えたもの
▶︎ ④ 赤塩焼とは何だったのか
▶︎ ⑤ なぜ消えたのか
▶︎ ⑥ 名前が消えても残るもの(この記事)


信州・飯綱町赤塩。

ここまで追ってきて、
ひとつの答えにたどり着いた気がする。

赤塩焼きは、
消えたわけではなかった。

ただ──

名前が、後から付けられただけだった。

江戸時代末期から昭和初期にかけて、
この地で焼かれていた器。

それは当時、
特別な名前を持っていたわけではなかったのかもしれない。

ただ、
暮らしの中で使われる器として、
当たり前にそこにあった。

そして昭和40年代になって、
その流れを振り返るように、

「赤塩焼き」

そう呼ばれるようになった。

名前は、後から付けられた。

けれど──

使われてきた時間や、
暮らしの中での役割は、
最初からそこにあった。

あのこね鉢。

誰かの家で使われ続け、
今、自分の手の中にあるもの。

戸草トンネルの煉瓦。

人が通るために、
今もそこに残り続けているもの。

形は違っても、
やっていることは変わらない。

土を焼き、
人の暮らしを支える。

それだけのこと。

けれど──

その“当たり前”が、
ずっと続いてきた。

名前がなくても、
それは確かに存在していた。

そして今も──

形を変えながら、
暮らしの中に残っている。

赤塩焼と考えられるこね鉢で生地をこねる親子
名前は曖昧になっても、暮らしの中には残っている

手の中で、
受け継がれていくものがある。

それは、
名前ではなく、

暮らしの中で続いてきたものだったのかもしれない。

名前が消えても、
暮らしの中に残り続けるものがある。

赤塩焼きを追いながら見えてきたのは、
焼き物そのものよりも、
“人が使い続けてきた時間”だったのかもしれない。


歩きながら、
少しずつ繋がっていった記録です。

▶ 御開帳と善光寺焼シリーズ
赤塩焼シリーズ
▶ 空気シリーズ

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