【信州 赤塩焼き|シリーズ】
▶︎ ① あそこだと気づいた日
▶︎ ② 手の中に残っていたもの
▶︎ ③ あのトンネルで見えたもの
▶︎ ④ 赤塩焼とは何だったのか
▶︎ ⑤なぜ消えたのか(この記事)
▶︎ ⑥ 名前が消えても残るもの
信州・飯綱町赤塩。
ここまで追ってきて、
ひとつの疑問が残る。
なぜ、赤塩焼きは消えたのか。
かつてこの地では、
器が焼かれていた。
暮らしの中で使われる、
当たり前の道具として。
けれど時代は変わる。
明治に入り、
鉄道が通る。
信越鉄道。
人と物が、
これまでとは違う速さで動き始めた。
その流れの中で、
土を焼く技術は、
別の形でも使われるようになる。
煉瓦。
戸草トンネルをはじめとした構造物に、
その技術は使われていった。

器を作っていた手が、
今度は社会を支えるものを作る。
需要が変わった。
暮らしも変わった。
大量生産の時代。
安く、早く、
同じものが手に入るようになった。
それまで当たり前だったものが、
少しずつ姿を消していく。
赤塩焼きも、
その流れの中にあったのかもしれない。
特別な理由があったわけではない。
ただ──
時代に合わなくなっていった。
だから消えた。
そう考えることもできる。
けれど──
ここまで見てきて、
それだけではない気がしている。
確かに、
名前としての赤塩焼きは消えた。
窯もなくなった。
けれど、
技術は残った。
形を変えて。
煉瓦として。
そして、
暮らしの中の器として。
名前が消えただけで、
やっていたことは消えていない。
そう考えると、
赤塩焼きは、
「消えた」のではなく、
「別の形になった」と言えるのかもしれない。
⸻
名前が消えても、
残り続けるものがある。
赤塩焼きを追いながら見えてきたのは、
“焼き物”よりも、
時代に合わせて形を変えてきた暮らしの流れだったのかもしれない。
歩きながら、
少しずつ繋がっていった記録です。
▶ 続きはこちら
信州 赤塩焼き⑥|名前が消えても、残るもの

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