【信州 赤塩焼き|シリーズ】
▶︎ ① あそこだと気づいた日
▶︎ ② 手の中に残っていたもの
▶︎ ③ あのトンネルで見えたもの
▶︎ ④ 赤塩焼とは何だったのか(この記事)
▶︎ ⑤なぜ消えたのか
▶︎ ⑥ 名前が消えても残るもの
信州・飯綱町赤塩。
ここまで来て、
ようやく見えてきたものがある。
赤塩焼きとは、
いったい何だったのか。
江戸時代末期から昭和初期にかけて、
この地には窯があった。
陶工・小林栄十郎。
尾張国赤津村の瀬戸焼の技術を持ち込み、
この地で器を焼き始めた。
その後を継いだのが、
子・作治郎。
父子二代にわたって、
この土地の暮らしを支える器が作られていたという。
特徴は、
はっきりしているようで、
実はとても曖昧だ。
青緑色の釉薬。
流れるような表情。
けれど、
それだけでは判断がつかない。
松代焼にも、よく似ている。
なぜ、ここまで似ているのか。
それは、
技術も土も、
同じ土地の中で繋がっていたからだと思う。
同じ時代。
同じ暮らし。
同じ手。
だからこそ今、
見分けることが難しい。
いいづな歴史ふれあい館で、
こんな話を聞いた。
「今となっては、古いものは
松代焼でくくる方もいます」
確かに、その方が分かりやすい。
けれど──
こうも言われた。
「出処を聞けば、
あなたのその器は赤塩焼きでしょう」
その言葉で、
すべてが繋がった気がした。
見た目では分からない。
けれど──
どこで使われてきたかは、
消えない。
赤塩焼きとは、
形で残るものではなく、
流れの中に残っているものなのかもしれない。
だからこそ──
あのこね鉢も、
戸草トンネルの煉瓦も、
同じものとして繋がって見えた。
器として始まり、
暮らしの中で使われ、
やがて社会を支える形へと変わっていった。
そして今は、
名前すら曖昧になりながら、
それでも確かに残っている。
赤塩焼きは、
消えたわけではない。
ただ──
分からなくなっただけなのかもしれない。

暮らしの中には残っている

受け継がれていくものがある
歩きながら、
少しずつ繋がっていった記録です。
▶ 続きはこちら
信州 赤塩焼き⑤|なぜ消えたのか

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