【信州 赤塩焼き|シリーズ】
▶︎ ① あそこだと気づいた日
▶︎ ② 手の中に残っていたもの(この記事)
▶︎ ③ あのトンネルで見えたもの
▶︎ ④ 赤塩焼とは何だったのか
▶︎ ⑤ なぜ消えたのか
▶︎ ⑥ 名前が消えても残るもの
飯綱町の老夫婦と出会って、30年。
その時間の中で、
ずっと変わらないものがあった。
世話になった婆ちゃんが、他界した。
年末、線香をあげに訪ねた。
いつもと変わらない台所。
だけど、その日は少しだけ静かだった。
帰り際、
勝手口のあたりで、ふと目に入った。
ひとつの器。
「こね鉢」だった。

誰かの暮らしの中で、使われ続けてきたこね鉢
気になって、爺ちゃんに聞いてみた。
「これ、どうするの?」
すると、ぽつりと返ってきた。
「婆ちゃんと、その家族が大事に使ってたやつだ」
少し間があって、こう続いた。
「もう、処分するつもりだ」
手に取った瞬間、
なんとなく違和感があった。
青緑色の釉薬が、流れるように垂れている。
一見すると、松代焼にも見える。
正直、言われなければ分からない。
けれど──
それは、ただの古い器とは違った。
場所。
使われてきた時間。
そして、この土地。
いろんなものが重なって、
頭の中でひとつに繋がった。
これは、赤塩焼きじゃないか──
そう思えた。
小林栄十郎。小林作治郎。
父子二代で焼かれていた赤塩焼き。
その歴史を考えれば、
作治郎の晩年に作られた生活雑器のひとつ。
そう思えた。
「これで、何を作っていたんだろう」
そんなことを考えながら、
手の中で重さを確かめる。
このこね鉢で、
家族とパンでも捏ねたら──
きっと、美味いんだろうな。
そんなことを考えていた、その時。
「大事に使ってくれ」
爺ちゃんが、そう言った。
その一言で、
この器の時間が、自分の中に流れ込んできた気がした。
気がつけば、
そのこね鉢は自分の車の中にあった。
仏壇に手を合わせて、
心の中で誓う。
大事に使わせてもらいます。
そのまま使う気には、なれなかった。

赤塩焼きは、消えたと言われている。
けれど──
こうして、確かに残っていた。
それは、歴史の中ではなく、
人の暮らしの中に、確かに残っていた。
今、
自分の手の中にも。
⸻
手の中で、
受け継がれていくものがある。
赤塩焼きを追いながら見えてきたのは、
焼き物そのものよりも、
人が使い続けてきた時間だったのかもしれない。
歩きながら、
少しずつ繋がっていった記録です。
▶ 続きはこちら
信州 赤塩焼き③|あのトンネルで見えたもの


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