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信州 赤塩焼き①|「あそこだ」と気づいた日

戸草トンネル説明板と赤塩焼煉瓦の記載(長野県飯綱町) 赤塩焼シリーズ

【信州 赤塩焼き|シリーズ】

▶︎ ① あそこだと気づいた日(この記事)
▶︎ ② 手の中に残っていたもの
▶︎ ③ あのトンネルで見えたもの
▶︎ ④ 赤塩焼とは何だったのか
▶︎ ⑤ なぜ消えたのか
▶︎ ⑥ 名前が消えても残るもの


信州・飯綱町赤塩。

この土地に、かつて
「赤塩焼き」と呼ばれる焼き物があった。

——そう知ったのは、本を読んでいる時だった。

江戸時代末期から昭和初期にかけて、
父・小林栄十郎、子・小林作治郎。

父子二代の陶工が、この地で窯を営み、
暮らしに必要な生活雑器を焼いていたという。

栄十郎は、尾張国赤津村の瀬戸焼の陶工だった。
その技を携え、信濃・赤塩の地へ移り住んだ。

当時、信州最北端ともいわれる窯で、
庶民の暮らしを支える器を作っていたそうだ。

その後を継いだ作治郎は、
明治19年(1886年)から2年間、
信越鉄道建設資材の煉瓦製造も請け負っていたという。

土を焼いて、器を作る。
その技術が、今度は鉄道を支える煉瓦へと繋がっていった。

ここまでは、本で読んだ話だった。

けれど──

読み進めているうちに、

「あれ? あそこじゃないか…」

若い頃、鉄道の土木工事に携わっていたことがある。

何度も通った場所。
工事で関わった場所。
雨宿りをしたこともあるし、
待避所みたいに使ったこともあった。

当時から、
古い歴史的な構造物だなとは思っていた。

でも、その場所が
赤塩焼きと繋がっているなんて、
その頃は思いもしなかった。

昔、現場管理のおっちゃんに聞いたことがある。

「この辺のトンネルはな、
地元で作ったレンガを使ってるんだ」

その時は、
へぇ、そうなんだ。
くらいにしか思わなかった。

けれど今、
『しなのの陶磁器』を読んでいて、
その話と赤塩焼きが、ひとつに繋がった。

あそこだ。

あのトンネルだ。

そう思ったら、
いても立ってもいられなくなって、
久しぶりに見に行ってきた。

戸草トンネル入口の煉瓦アーチ構造(長野県飯綱町)
静かに残る、戸草トンネルの煉瓦アーチ。

しなの鉄道・古間駅の近く。

そこにあるのが、戸草トンネル。

外から見ると、
静かな山あいに口を開ける、
古いトンネルだ。

けれど、ただ古いだけじゃない。

アーチ部分には煉瓦。
側壁には切石。

この場所には、
赤塩焼きの技術が、
形を変えて残っている。

器としてではなく、
人が通るための構造物として。

明治の終わりでも、大正でもない。
もっと前の、鉄道の黎明期から、
今までずっとそこにある。

130年以上経った今も、
多少の補修はされながら、
普通に町道として使われているというのもすごい。

戸草トンネル内部に続く煉瓦アーチ構造(長野県飯綱町)
煉瓦のアーチの先に、今の風景が続いている

中に入ってみると、
煉瓦の曲線が頭の上に続いていて、
ただ通るだけの場所じゃないことが伝わってくる。

あの頃は、
何気なく通っていた。

雨を避けたり、
仕事の流れの中で立ち寄ったり、
ただの現場の一部だった。

でも今は違う。

ここには、
土地の歴史がある。

この土地で焼かれたものが、
人の暮らしを支える器になり、
さらに鉄道を支える煉瓦にもなっていった。

そう思って見ると、
同じ景色でも、まるで意味が変わって見える。

因みに、
大廻隧道(飯綱町〜信濃町)、
戸草隧道(信濃町)、
坂口新田隧道(新潟県妙高市)の三つのトンネルは、
煉瓦と切石で組まれ、
2013年に土木学会選奨土木遺産に選ばれているそうだ。

赤塩焼きは、
もう作られてはいない。

けれど──

消えたわけではなかった。

形を変え、
役割を変え、
今も、こうして残っている。

本を読んで、
昔の記憶と繋がって、
実際にまた足を運んでみて、
ようやく気づいた。

赤塩焼きは、
ただ昔あった焼き物じゃない。

この土地の暮らしや仕事の中に、
今も確かに続いているものなんだと思う。

そして──

この話には、まだ続きがあった。

その時の自分は、
まだ知らなかった。

“器として残っていたもの”に、
これから出会うことを。

形を変えても、
残り続けるものがある。

赤塩焼きを追いながら見えてきたのは、
焼き物そのものよりも、
土地と暮らしの中に流れ続けてきた時間だったのかもしれない。


歩きながら、
少しずつ繋がっていった記録です。

▶ 続きはこちら
信州 赤塩焼き②|手の中に残っていたもの

▶ 御開帳と善光寺焼シリーズ
▶ 赤塩焼シリーズ
▶ 空気シリーズ

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