【 小布施でアートを感じる記録 】
▶ 雨の玄照寺で、静けさを見た日
▶ 北斎館で感じた、“別の波”
▶ 祭り屋台と、中島千波館の屋台蔵を歩いた日
▶ あかり博物館で、昔の灯りを見つめた日
▶ 本記事|小布施と雨と、中島千波館での一日
▶ 動き続ける絵と、止まらない視線
雨が降りはじめた。
コンクリートとレンガで整えられた小径。
枝垂れ桜の花びらと、花梗が散っている。
その上から、
小雨が重なるように降ってくる。
水滴が丸く浮かび、
じわっと滲む。
時折り、走り出す水飛沫。
足跡も重なって、
気づけば足元が、ひとつのキャンパスみたいになっていた。
絵なんて描けない俺でも、
これは少し、いいなと思った。

小布施ミュージアム・中島千波館へ。
中島千波。
長野県小布施町にゆかりを持つ日本画家
小布施という土地と、どこか深く結びついた人。
父は、日本美術院同人として活躍した日本画家・中島清之。
その疎開先であった小布施で、三男として生まれた。
土地と人とが、最初からどこかで繋がっている——
そんな背景を持った人でもある。
入口で「小布施の方ですか」と聞かれて、
はい、と答えると、
「4月から無料なんですよ」
知らなかった。
得した気分のまま、そのまま中へ入る。
館内に入ると、
思っていたよりもずっと柔らかい空気だった。

気づけば、
子どもが自然と座り込んで、
本を開いていた。
無理に“見せる”場所じゃない。
自分から入っていける場所だった。
第2展示室へ。
《素桜神社の神代櫻》
長野市にある、素桜神社。
推定樹齢一二〇〇年のエドヒガンザクラ。
善光寺の裏から、
くねくねとした坂を上った先にある場所。
以前、長野市に住んでいた頃、
何度か通った、馴染みのある景色だった。
《富貴華宴》
《神池花菖蒲》
《絢爛扇形朝顔図》
《秋季紅葉図》
金屏風に、それぞれ描かれた花木が、
五つ、静かに並んでいる。
並びがいい。
席順も決めていないのに、収まりがいい。
どれも強い。
でも、張り合っていない。
優劣も、結果も、
ここでは出番がないらしい。
ただ、そこに在る。
それぞれが、そのままで成立している。
その光の中にいると、
心が少し軽くなる。
抗わなくてもいい。
任せていればいい。
……なるほど、と思った。
急いでも、
花のようには咲けないらしい。
人間だけが、忙しい——
らしい。
ふと、桜の図に目が止まった。
《千波のサインと桜の図》。
歌舞伎座の緞帳「春秋の譜」として、
10年間使われ、役目を終えた布。
伊藤園から提供され、
仕立て直されたものらしい。
やわらかく広がる桜。
これを——
家のウッドデッキに敷いて、
その上で花見でもできたら、
違う時間が流れそうだな、と思った。
「これ、家に敷いて花見したいな」
そう言うと、隣で息子がすぐに返してきた。
「え、公園に持ってって、みんなでご飯とかおやつ食べたらよくない?」
……発想が、だいぶ外に向いてる。
俺は完全に“自分の時間を楽しむ側”だったのに、
こっちは“みんなで使う前提”だった。
運ぶのも無理だし、サイズ的にも色々と無理なんだけど、
それでも、
自分だけで楽しむ想像じゃなかったところに、
ちょっと負けた気がした。
第2展示室を抜け、
その流れのまま、2階のロビーへ。
壁に並ぶ、桜のデッサン。
言葉にするより、見たほうが早かった。

先ほどの金屏風に描かれていた、
長野市の《素桜神社の神代櫻》。
さらに、高山村の
《坪井の枝垂桜》。
紙と紙を繋ぎ合わせた、大きな一枚。
枝の曲がり。幹の癖。
細かく刻まれた線。
各地に足を運びながら、
その場で向き合って描かれてきた桜たち。
完成された作品というより、
向き合ってきた時間そのものだった。
未完成のようで、
一番、嘘がない。
その背後には、本棚があった。
長野や小布施に関係する本。
北斎や、高井鴻山の本。
英語の本も混ざっている。
キース・ヘリングの本もあった。
息子はそれを引っ張り出して、じっと見ている。
「お父さん、この絵、家にもあるやつじゃん」
さっきまで絵を見ていたのに、
今度は本を見ている。
何を思っているのかは分からない。
でも、確かに何かを見つけている顔だった。
俺も一冊、手に取る。

ここは、美術館でありながら、
図書館であり、資料館でもあるような場所だと思った。
見ることと、知ることが、
自然に重なっていく。
それがそのまま、
どこかに残っていく。
その流れのまま、奥へ進む。
通路の両側には、販売されている絵。
先ほどデッサンで見た
《坪井の枝垂桜》。
その完成された画が、ここにある。
デッサンで見た線が、
ひとつの作品になっている。
そこにあった時間ごと、
そのまま残されているようだった。
奥では、制作の様子を映した映像。
迷いながら、確かめながら、
一本の桜に向き合っている。
作品だけを見ていた時には分からなかった。
あの桜は、描かれたものというより、
向き合われたものだった。
さらに奥に、富士山の絵。
静かだった。
何も語らないのに、
ずっと見ていられる強さがあった。
受付で本を二冊、購入した。
そのとき、周りが少しざわついた。
――中島千波、本人が現れた。

先ほどまで作品の中にいた人が、
目の前を歩いている。
驚きは、小さかった。
むしろ、
「ああ、そうか」と思った。
作品と同じように、
静かにそこにいる人だった。
軽くお辞儀をして、通り過ぎていく。
スタッフの計らいで、
サインと記念撮影。
交わした言葉は、多くない。
それでも、
あの絵が静かだった理由が、
すとんと腑に落ちた気がした。
作品は、作者から離れてそこにある。
でも、やっぱりどこかで繋がっている。
線の静けさ。
色の間。
向き合ってきた時間。
それらが、
本人の佇まいと重なって見えた。
ただ、ひとつだけ思った。
北信五岳を、
あの人の手で見てみたい。
偶然だったのかもしれない。
でも、
この日にここへ来て、
桜を見て、デッサンを見て、
息子が何かを見つけて、
そのあと本人に出会った。
そう考えると、
ただの偶然だけでは片づけたくなかった。
何かを見に来たつもりが、
何かに見つけられたような日だった。
雨は、最後まで静かに降り続いていた。
何も変わっていないのに、
少しだけ違って見えた。
⸻
雨の小布施を歩きながら、
見ていたのは展示だけじゃなかったのかもしれない。
屋台蔵。
灯り。
祭り。
波。
昔のものばかり見ていたはずなのに、
どこか今の暮らしに繋がっていた。
──その土地に流れる“空気”も含めて。
⸻
歩きながら、
少しずつ繋がっていった記録です。


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