家を出る
時計を見ると、午前11時。
今日は、雁田山へ登る日だ。
玄関を出る前、
家のホワイトボードに一言だけ書いた。
「雁田山へ行ってきます。」

誰かが帰ってきた時、
どこへ行ったのか分かるように。
それが我が家の小さな約束である。
───
リュックサックの中身を、
もう一度だけ確かめる。
忘れ物はない。
玄関を出る。
家庭菜園の野菜へ水をやる。
その横には、
枝垂れ桜が立っている。

その木の下で、
愛犬あさみが眠っている。
「行ってくるよ。」
もし今も元気だったら、
きっと今日も一緒に歩いていただろう。
そう思いながら、
枝垂れ桜をあとにする。
家のまわりを軽く片づけていると、
家の前を、
近所のおじさんが通りかかった。
───
「今日はどこ行くんだ?」
近所のおじさんは、
私たちが引っ越してきてから、
釣りの話をしたり、
野菜の育て方を教えてくれたり。
何かと気に掛けてくれる、

優しい人だ。
「今日は雁田山へ行ってきます。」
「熊、気をつけろよ。」
「ありがとうございます。
よかったら、
一枚撮ってもらってもいいですか?」
「じゃあ写真撮ってやるか。」
携帯を渡すと、
「これ、使い方が分からねぇな。」
と笑いながら画面を眺めている。
あれこれ押しながら、
ようやく一枚。

思わず二人で笑った。
少し照れくさかったが、
その何気ない時間と、
撮ってもらった一枚が、
雁田山へ向かう前の、
大切な思い出になった。
───
「じゃあ、行ってきます。」
そう言って、
おじさんに手を振り、
家をあとにした。
雁田山へ
家をあとにして、
桃畑の間を歩く。
ぶどう畑を抜け、
栗畑を過ぎる。

小布施らしい景色を眺めながら歩いていると、
県天然記念物の
「雁田のヒイラギ」が姿を見せる。
その大きな姿を見上げ、
静かに前を通り過ぎた。
───
住宅街へ入ると、
雁田水穂神社へ立ち寄る。

小布施へ引っ越してきてから、
子どもたちと散歩をしながら、
何度も遊びに来た、
思い出のある神社だ。
「今日も無事に帰ってこられますように。」
そう願い、
静かに手を合わせた。
───
そこから少し歩くと、
KUTENと岩松院が見えてくる。

この日は、
登山前にKUTENでランチをいただいた。
落ち着いた店内で、
カフェオレを飲み干す。
歩いてきた疲れも癒え、
気持ちを整えて店を出た。
時計を見ると、
午後12時50分ごろ。
いよいよ、
雁田山へ向かう。
───
店を出ると、
夏の日差しを浴びた一本松が、
まぶしく輝いていた。
帽子をかぶり直し、
岩松院へ軽く一礼する。
そのまま、
登山口へ向かった。

登山口のベンチに腰を下ろす。
熊鈴を身に付ける。
熊撃退用の空砲を確認する。
引き金を引いてみたが、
火薬が湿気っていたのか、
反応しない。
今日は使えそうにない。
ザックへしまい、
虫除けスプレーを全身に吹き掛ける。
忘れ物はない。
深く息を吸う。
「あさみ、行こう。」
「今日は無事に帰ってこよう。」
そうつぶやく。
目の前には、
静かな山道が続いていた。
雁田山へ、
最初の一歩を踏み出した。
山の中へ
山道へ足を踏み入れると、
外の暑さが嘘のように、
ひんやりとした空気が体を包んだ。
頭の上では、
何匹かのセミが、
夏の訪れを知らせるように鳴いていた。
木漏れ日が、
木々の間から差し込み、
足元へまだら模様を描いている。
熊鈴の音だけが、
静かな山の中へ響いていく。
一歩、
また一歩。
ゆっくりと山道を登っていく。

誰とも会わない。
聞こえるのは、
セミの鳴き声と、
熊鈴の音、
そして自分の足音だけ。
時折立ち止まり、
水を飲み、
額の汗をぬぐう。
深呼吸をすると、
土の匂いと、
夏の森の香りが胸いっぱいに広がった。
静かな山道は、
どこまでも続いている。
熊が出てもおかしくない。
そんな緊張感が、
頭から離れることはなかった。
それでも、
一歩ずつ、
前へ進んでいく。
───
やがて、
小城の砦跡へ到着する。
さらに尾根を進むと、
大城の砦跡が現れた。
戦国時代、
この尾根を多くの人が歩いたことを思うと、
静かな山の中にも、
歴史の重みを感じる。

───
その先には、
急な木段が続く。
息を整えながら、
一段ずつ登っていく。
やがて、
雁田山で最も標高の高い場所、
千僧坊へ到着した。

木々に囲まれ、
見晴らしはほとんどない。
少し休憩をして、
再び歩き始める。
ここからは、
緩やかな尾根道が続く。
基本は下り坂だが、
小さなアップダウンを繰り返しながら進んでいく。
歩くにつれて、
少しずつ西側の視界が開けてきた。
───
しばらく歩くと、
前から三人組の登山者が下りてきた。
男性が二人、
女性が一人。
「こんにちは。」
笑顔で挨拶を交わす。
この日、
山の中で出会った登山者は、
この三人だけだった。
三人の姿が木々の向こうへ消えると、
山は再び静けさを取り戻す。
熊鈴の音だけが、
森の中へ響いていた。
───
さらに歩くと、
大きな姥石が姿を現した。

岩の間を通り抜け、
再び尾根道を進んでいく。
やがて、
展望園地(東屋)へ到着した。
東屋のベンチに腰を下ろし、
ひと休みする。
吹き抜ける風が心地よい。
眼下には、
小布施の町並みが広がっていた。
気づけば、
自分の家を探していた。
「あった!」
思わず声が出る。
自分の家を見つけられたことが、
なんだか嬉しかった。
その先には、
北信五岳が雄大に連なっている。

家から持ってきた水筒を開ける。
朝はキンキンに冷えていた麦茶も、
ここまで歩いてくると、
ちょうど飲み頃になっていた。
一口飲むと、
火照った体へ、
ゆっくりと染み渡っていく。
汗をぬぐい、
水筒をしまう。
ここまで来れば、
山頂はもう目と鼻の先だ。
再び歩き始める。

物見岩を過ぎると、
春先、
子どもたちと登った時、
息子が見つけた熊の爪痕が残る木の前で、
足を止めた。

改めて近づいて見ると、
傷跡が、
以前よりも新しく見えた。
熊鈴を鳴らし、
辺りを見回しながら、
最後の登りを進んでいく。
───
山頂
そして、
雁田山山頂へ到着した。

標高七百五十九メートル。
ここには、
一等三角点が設置されている。
かつては、
国鉄時代に使われていた反射板も置かれ、
地域を見渡す場所として利用されていたという。
木々に囲まれた静かな山頂。
展望園地とは違い、
ここには到着した人だけが味わえる、
穏やかな空気が流れていた。

一等三角点を確認し、
深く息を吸う。
「あさみ。登ったよ。」
その一言が、
自然と口をついて出た。
目的地まで無事にたどり着けたことへ感謝しながら、
辷り山登山口へ向けて歩き始めた。
───
下山
山頂をあとにすると、
二の岩が姿を現し
続いて、
一の岩へ。
慎重に足を運びながら、
足元だけでなく、
落石にも注意しながら進んだ。

登山道脇には、
大きな石が並ぶ、
不思議な場所があった。
自然のものなのか、
人の手によるものなのか。
しばらく足を止めて、
眺めてしまった。

そのまま下り坂を歩いていると、
森の中から、
ガサガサと葉の揺れる音が聞こえた。
見上げると、
一匹の猿がこちらを見ていた。
しばらく目が合ったあと、
枝から枝へと軽やかに飛び移り、
森の奥へ消えていく。
雁田山で最後に出会ったのは、
一匹の猿だった。

その後も、
慎重に坂を下っていく。
木々の間から差し込む木漏れ日が、
行きとは違う景色を見せてくれる。
やがて森を抜けると、
目の前には、
小布施クエストが見えてきた。
辷り山登山口へ無事に到着した。
振り返ると、
さっきまで歩いていた雁田山が、
静かにそこに立っていた。
「無事に帰ってこられた。」
そう思うと、
自然と笑みがこぼれた。
ここから、
おぶせ温泉 穴観音の湯へ向かって歩き始めた。

おわり
時計を見ると、
午後5時前。
家を出たのは、
午前11時だった。
約6時間。
家を出て、
KUTENでランチをいただき、
岩松院登山口から登り、
辷り山登山口へ無事に下山することができた。
おぶせ温泉 穴観音の湯で汗を流し、
今日一日の疲れを癒やした。

帰り道、
小布施の空は夕焼け色に染まり、
北信五岳の向こうへ太陽がゆっくりと沈んでいく。
カラスも、それぞれのねぐらへ帰る時間だった。
私も家路についた。
枝垂れ桜の下で眠る、
あさみに声を掛けた。
「帰ってきたよ。」
返事はない。
それでも、
今日も一緒に歩いてくれたような気がした。
雁田山は、
派手な山ではない。
それでも、
歴史があり、
自然があり、
小布施の町を見守り続けてきた山である。
一歩ずつ歩いた先には、
歩いた人だけが出会える景色がある。
小布施を訪れたら、
ぜひ、
雁田山を歩いてみてください。
ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。
この記事が、
小布施の町や里山を歩いてみようと思う、
小さなきっかけになればうれしく思います。
これからも、
歩く中で出会った景色や、
家族と過ごした時間を、
記録として残していきます。
───
📍雁田山ハイキングの参考リンク
───
📖 あわせて読みたい
▶ KUTEN
▶ 雁田のヒイラギ


コメント